■〜兜の夜〜
仕事帰りの金曜日。僕は、とある店のドアを開ける。 店の名前は「兜」 ドアを開けて、馴染みのカウンター席に着く。 くったくのない笑顔で、うら若い女性が温かいおしぼりを差し出してくれる。 傍らには、部屋の面積とは釣り合わない、贅沢な大きさの黒のグランドピアノ。 スマートな長身のピアニストが「route 66」を弾き始める。 空間がジャズの音で染まってゆく。 目の前の女性の作ってくれた水割りを、一口、くちにふくむ。 と同時に「セ・シ・ボン」に曲がうつると、伴奏につれられて、お客の女性が歌いだした。 ここでは、お客が、スポットライトを浴びることができる。ピアノの傍らに立ち、マイクを持つ。 店の雰囲気も一転。 きっと、この次は、僕の番だろう。 何を歌うか、決めておかなくてはならない…。 女性がお辞儀をする。パラついてはいるが、心地いい拍手だ。ピアニストが僕を見ている。 「さあ、お次をどうぞ」 僕は、はにかみつつ、ピアノの横に立ち「アン・ルイスのグッド・バイ・マイ・ラブをお願いします」と。 ひと時の歌手気分を味わう。 今夜もこうして「兜」の夜が過ぎていく。
